HI-NRG ATTACKの首領にして、ベテラン中のベテランとしてユーロ界に君臨するプロデューサー、しかしそのサウンドは斬新な発想に富んでいて、常にユーロビートの最先端を目指しているといっても過言ではありません。彼はすでに70年代から音楽業界で働き始め、80年に入ってパートナーのFederico
Rimontiと共にLIVE MUSIC STUDIOを設立。イタリア国内向けの音楽をつくっていましたが、その頃Mauro
Farinaと出会い、運命を大きく変えることになりました。
Farinaのパートナーとしてユーロビートに関わることになった彼は共作という形で「AWAKA BOY/TAJANA」「BOOM
BOOM DOLLER」などのユーロ史に名作を連発。他にもRADIORAMA、MICHELFORTUNATIなど当時の有名なアーティストの楽曲にも顔を出し、哀愁主体のイタロディスコ調が主流だった当時のユーロビートに明るく口ずさみやすいメロディを持ちこみ、現在のユーロビートの源流を築いていくのでした。
FarinaとのパートナーシップはASIAレコードまで続きますが 活動が徐々に失速しはじめた92年、今度はTIMEレーベルで専属契約を結ぶことになりました。ここではAdditinal
Producerとして特別な待遇を受け、彼らが関わった曲は事実上セルフプロデュースによるものでした。そのサウンドもFarina時代とは一線を画す哀愁ハイパー路線に転向。「SUGAR
BABY」、「DOCTOR DOCTOR」など大ヒット曲を量産。後の作風の源流ともいえるエッジの鋭いシンセを使い始めたのもこの頃からです。
しかし既に彼らは単独でレーベルを立ち上げることを計画していたようです。約2年のTIMEへの楽曲提供でさらに名声を高めた彼らはついにDISCOMAGIC傘下に自らのレーベル「LIVE
MUSIC」を設立。が、その直後にDISCOMAGICが倒産するという事態に陥り、レーベルの存続が不可能に。 わずか2タイトルのリリースに終わりました。
しかしそこでめげないのは彼らの力量たるものか、すぐ後に大手レコード会社「DIG IT International」
とパートナー契約。ここに「HI-NRG ATTACK」が誕生するのでした。
同時にサウンドもレイブシーンの台頭に合わせてどきついシンセとサンプリングの嵐で構成された衝撃的なサウンドがユーロビートシーンの新しい流れを作り出しました。それはこれまで彼らのやってきたことを全てぶち壊すかのようなものでもありましたが、やはりそれは熟練した経験と常に新しいものを貪欲に追い求める彼らの姿勢がそのままサウンドに乗り移ったものにほかありません。
その後はサウンドそのものの進化と共にアイデア勝負(笑)ともいえる斬新なサウンドをリリース。MAXにカバーされた「TAKE
MY GUM」、「TECTORONIC FLIGHT」、「MAD COW」を筆頭に日本ネタをふんだんに用いた「DANCING
AT TWINSTAR」「VELFALLE 2000」などがヒットしました。98年にはDIG ITが倒産しアナログリリースが一時ストップするなど再三の危機がありましたが(^^;、自らのパフリッシャー「Rimonti
Publishing」を設立。ついに真の意味での独立を果たすのでした。
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